最近読んだ本3冊

レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』上・下

悲しき南回帰線(上) (講談社学術文庫)

悲しき南回帰線(上) (講談社学術文庫)

悲しき南回帰線(下) (講談社学術文庫)

悲しき南回帰線(下) (講談社学術文庫)

キップ・ハンラハンも来日時勧めてた 笑。大半は南米への紀行記で、少数民族への率直な視点での研究(とヨーロッパ社会との対比)で構成されていて、そこはスラスラと楽しく読めるのだけど、それ以外が少々難解。所々目から鱗が三回位落ちる瞬間が数回、余りに訳の分からない抽象的な描写に首を捻ること数回、何とも形容できないけれど得がたい読書体験でした。しかし古い版で読んだので憤りを覚えるほど室さんの訳がツラかった、、。この本の感想については後で詳しく書く予定です。

以下メモ。

「哲学の面ではベルグソン主義とネオ・カント主義を混合した学説であって、わたしの期待はひどく裏切られた。(中略)そこでは、すべての問題は、重要なものも取るに足りないものも、つねに同一の方法を適用して切りが付けられることを、知るようになった。問題に対する伝統的な、2つの見地を対比させ、常識を正当化することによって第一の見地を導入し、次に第二の見地を用いて先の正当化をこわし、最後に2つの見地の、等しく部分的性質を表している第三の見地を助けをかりて、先の2つの見地のどちらにも軍配をあげない。つまり、2つの見地は同一の実在の相補う2つの側面に、言葉の技巧をかりて戻してしまうのである。形式と本質、容器と中身、実質と外見、連続と非連続、存在と実存など。こうした練習は考察にとってかわる駄じゃれの技術に基づくもので、すぐに口頭だけのことになってしまう。用語の間の同一、または擬似母音の繰り返し、異綴同音意義、多義性などが純粋に観念的な芝居の見せ場を提供して、すぐれた哲学研究とはそうしたことを巧妙に行うことになるのである。」

「哲学は数世紀を通じて、(中略)技巧の完成度もしくは内部の緊密度が大きければ大きいほど価値のあるものとされてきた。つまり、哲学教育は美術史の教育にも比すべきものとなった。(中略)納記(シニフィアン)は所記(シニフィエ)となんら関係を持たず、指示物(レフエラン)はもはや存在しなかった。知的能力が真理愛にとって代わったのである。(中略)この道具は道具としての価値だけは持っていて、使い道によっては十分に使えるものであった。わたしはその道具の内部構造の複雑さに欺かれたり、その実用的用途を忘れて、みごとな構造をわれを忘れて眺め入ったりするおそれはなかった。」

その他もろもろ。ショパンを語る所。ルソーの出した解答/『社会契約論』。回教≒キリスト教<仏教?


J・G・バラード『奇跡の大河』

奇跡の大河 (新潮文庫)

奇跡の大河 (新潮文庫)

水の無いアフリカの砂漠に現われた河に自己を同一視し、その河を殺す(≒自殺する)という強迫観念に取り付かれたヨーロッパ人の白昼夢のような旅。遡行するに沿って世界の成り立ちを追体験するかの如く、原始に戻っていき次々と現われる情景はなるほど、アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』のSF版とでも呼ぶべきものですが、カミュ『ペスト』や開高健『パニック』などパニック小説のプラス版とも読めました。
SFと高次元でミーツしたUK版マジック・リアリズム小説です。おもしろい。