批評って?

(ブレインズ叢書2) 散文世界の散漫な散策 二〇世紀の批評を読む

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(ブレインズ叢書1) 「批評」とは何か? 批評家養成ギブス

(ブレインズ叢書1) 「批評」とは何か? 批評家養成ギブス

テクニックと気概を教える授業、と相互を補完する様になっているのが興味深いです。これは2冊同時に発売したことと無関係ではないでしょう。どちらも実際のリアル授業の書き起こしなので口語体で記述されていますが、大谷さんの方は対象を解体し、理路整然と批評家の論旨およびその精髄に向かっていくのに対し、佐々木さんの方はかなり回りくどいし同様の記述が反復されているという。全くもって著者(話者)の個性が反映されております。
大谷さんは対象となる批評家(対象が芸術家でもそうなのでしょう)の論旨を抜き出しそれを解きほぐしわかり易い表現にするのがとても上手い。そういった意味では大谷さんの批評のエッセンス(本質)を教える授業。対して佐々木さんはこの授業自体が「批評」と呼ばれる言語(芸術)活動に対すしてオルタネイトであろうとするという批評活動になっている気もして、そういった意味では批評家の心構えと、それ以外(意外?)にも実践的なテクニックが手ほどきされます。

佐々木さん。現在の批評の特性はジャンルを貫通すること。自身の例:ノイズミュージックからジャック・リベットの映画を批評すること、など。異なるジャンルで同時多発的に起きているイベント(インシデント)にシンクロニシティーを感じること。なるほど、芸術とは大衆の集団労働による剰余価値なのだから、社会状況を反映する、いや現状の社会状況から来るべき社会の先鞭なのであるから。(マルクス資本論およびネグリ芸術とマルチチュードから適当に引用。)これと同じような論旨は大谷さんの著作の方でも語られています。当時の音楽批評には読むべきものが無かったから、仕方無しに他の芸術分野の批評を当っていた、等等。

どちらも日本語で書かれた批評を題材としながらも、書かれた本自体がその題材の批評になっているという、読み応えのあるものでした。
個人的には大谷さんの本に蒙きを啓かれる思いで読んでました。芸術・社会・映画・歴史・文学それぞれの素晴らしい日本語での批評家の仕事が紹介されていたのですが、不勉強ながら初めて名前を知った宮川淳氏の批評にはなんとも距離が遠いと思っていた現代美術との距離を縮めてくれた思い。


以下、引用。

逆説的に言えば、あまりにも長い間、近代をコンタンポラン(contemporain)のシノニムとして語りつづけて来たわれわれは、いまや、現代をコンタンポランという一般的観念の中にもはや解消してはならない時点、のみならず、コンタンポランの中から、いわば現代を先取りしなければならない時点にまで到達しているようだ。

むしろ、われわれはより広く、現代の意識におけるひとつの事実に注目すべきだろう。それは、たとえば詩の領域において、イヴ・ボンヌフォアが単なる個性の差をこえて、ヴァレリイと対比的に示すもの、ガストン・バシュラールの「物質の想像力」という発想が語るもの、そして、ミュジック・コンクレートにあらわれるものである。さらにデュブュッフェの「オート・パート」を絵画の領域におけるひとつの指標として、これらのいくつかの徴候をパラレルに捉えるとき、ほぼ1940年代後半を境として、現代の意識における、いわばフォルムからマチエールへの価値転換が明らかになるだろう。

視覚によって捉えられた外面的なフォルム―そして、それと不可分に結びついたものとしてのかぎりにおいての色彩―をこえて、物質のイマジネールな内部、深みに向かおうとするわれわれを、一方、物質の現実の抵抗がさえぎる。このとき、マチエールとは、内部性と抵抗とのアンビヴァレンツにほかならないだろう。「想像力の次元においては、現実の抵抗がディナミックな夢想をひき起こすとも、あるいは逆に、ディナミックな夢想が物質の深みに眠っている抵抗を呼びさますとも、どちらともいえるのだ」と、バシュラールはいうが、重要なことは、したがって、マチエールがそれ自体のうちに表現可能性をはらんでいるならば、それは同時に、あくまで、そこに働きかける人間の行為と不可分なものとしてあらわれてくる、ということだ。

うーん素晴らしくわかりやすい。